三番目の旅は、「手段の旅」でもなく「知の旅」でもなく、旅そのもののための旅ーーつまり目的地はあっても、それが旅の目标ではなく、移动を成立させる契机にすぎず、もし目的地なしに旅が成立し得るなら(例えば漫游旅行など)、そんなものはなくてもかまわない、といった旅です。
こう见ますと登攀とか极地旅行などは、旅そのもののための旅ですが、最终目标への到达なしには旅の意味がなくなりますから、やはり第二の旅に入れるべきでしょう。
そうしますと、この第三グループの旅は、旅そのものが目的の旅――つまり楽しみの旅、游びの旅ということになります。例えば「ローカル线の旅」などは、わざわざ田舎の汽车旅をするわけですから、速く到着することを愿う「手段の旅」でもなく、科学的観察眼によって外界を眺める「知の旅」でもなく、ローカル线のひなびた、のどかな人情味を味わう、趣味の旅、享受の旅、诗的味わいの旅ということになります。これを「楽しみの旅」と呼んでおきましょう。
私たちが旅に憧れるとき、ほとんどこの「楽しみの旅」です。「私は通りすがりに谁かがイタリアという言叶を口にするのを耳にした。突然、全身にイタリアに旅したいという欲望が燃え上がった。あのとき私を引きとめることのできたのは、ただ死だけであったろう」というジョージ・ギッシングの「イタリア旅行记」の文章は、この「楽しみの旅」への渇望を実に鲜やかに描いています。ボードレールが空想した「旅への诱い」プルーストを捉えたヴェネツィアへの诱惑、スティーヴンソンの辿った南仏セヴェンヌの桟道など、いずれも「楽しみの旅」「诗的喜びに満ちた旅」だったのです。
この「楽しみの旅」は旅そのものが快楽の味わいを持っています。旅があたかも「甘い蜜」を入れた容器であって、旅立つと、すぐ甘い蜜を味わえるというわけです。
「楽しみの旅」の特徴は、旅全体が想像の中で何か素晴らしいものと思われることです。例えば南太平洋に旅したいと思う。すると、円い珊瑚礁に囲まれたラグーンの透明な青や、椰子の并ぶ海岸の白い砂や、浓い南海の绀碧の波や、冲に盛り上がる崇高な积乱云の块りが、息苦しいまでの幸福のイメージとなって浮かんできます。それはたまらなく素晴らしいもの、生命を活気づけるもの、楽しくしてくれるものですね。
私たちが日常生活のルーティーンの中で灰色の、面白味のない、単调な暮らしを强いられていると、それだけ余计に南太平洋の空は苍く、海の风は香わしく、岛のみどりは辉かしく见えてくるのです。そしてそれは私たちを一挙に幸福の国へ、歓喜のパラダイスへと导いてくれるように思えます。私たちはもう南海の岛のイメージを心に浮かべただけで、身体が痹れたよになる。旅への诱惑が全身に燃え立ちます。
そうです、これが「楽しみの旅」の特徴です。つまり想像のなかで、まず何か<素晴らしいもの>として掴まれること。そしてその<素晴らしいもの>にむかって私たちは旅立ってゆくのです。国际空港でパリへ、ニューヨークへ、东南アジアへ、インドへ、旅のプランを胸にして旅人たちが集まって出発を待っています。彼らはたしかに空路现実の都会や岛や観光地へ出かけて行くわけですが、しかしその心は、すでに空港のロビーから<旅>を楽しむ思いで満ちているのです。彼らは现実の国々に飞んで行きますが、本当は<素晴らしいもの>の中に飞び込んでゆくのです。それを全身で数日间、数十日间、味わってこようとしているのです。
この<素晴らしいもの>が远くの国にあると思うからこそ、旅立ちへの思いが胸に働きあげるのです。